三田駅→欣勝寺(くわばらくわばら欣勝寺)→金心寺(金心寺の仏さん)
→嫁が渕(嫁が渕ものがたり)→花山院(花山院と十二妃の墓)→三田駅
※他にも色んな民話が語られています。
移動中は、三田の豊かな田園風景とニュータウンの街並みが楽しめます。
所要時間:約3時間
欣勝寺(きんしょうじ)は、三田市桑原にある雷難除けで有名なお寺で、「くわばらくらばら・・・」の話でとても有名です。
境内には雷の子供が落ちたといわれる雷井戸があります。
お寺には多くの方が雷難降伏悪魔退散の御祈祷を受けに来られます。
1556年、とても暑い日のことでした。
空の上では雷様の親子が、雨を降らせてやろうと太鼓をたたいていました。
はりきりすぎた雷の子供が、うっかり足を滑らせてしまい、三田の欣勝寺の井戸に“ドスン!!”と大きな音を立てて落っこちてしまいました。
動こうともどうしても外に出られないので、「助けてくれ~!!」と大声で叫びました。
大きな音がしたので、欣勝寺の和尚さんが井戸を覗き込むと、やんちゃな雷の子供が落ちているので、あわててふたをして閉じ込めました。
雷の子供は「助けておくれ。桑原には二度と落ちません!!」と言ったので、和尚さんはもう落ちないことを約束させて、逃がしてやりました。
雷の子供は、雲の上に戻ってから両親に一部始終を話しました。
雷の両親は和尚さんに大変感謝をして、他の雷様たちを集めて「これからは、桑原に絶対に雷を落としてはならないぞ!!」ときつく戒めました。
それからというもの、欣勝寺や桑原には雷が落ちたことがありません。
また、雷が落ちないように、我が身に不吉なことが起こらないように「くわばら くわばら・・・」と唱えるようになりました。
雷難除けだけでなく、最近では「落ちない」ということで受験の祈願に来られる方も多いようです。
金心寺(こんしんじ)は、8世紀に創建され、唐から帰ってきた藤原鎌足の子である定慧という僧侶が建立したという伝説があります。
「三田市」の「三田(さんだ)」の名前の由来となった寺です☆
千三百年余り昔、三田市屋敷町に金心寺という寺がありました。
まつられていた弥勒仏と薬師仏が、戦国時代に兵火(へいか)で焼けてしまい、仏さまは、寺のそばの池に沈められましたが、その後、仏さまは引き上げられ、明治になって現在の金心寺に移されたました。
弥勒仏は、昭和初期に国の重要文化財に指定されましたが、仏像の胎内に、「当地を松山の庄という。これを金心寺三福田と改む」と記されていたといいます。
「三福田」とは、「敬田(人を敬う心の田)」、「恩田(恩を忘れない心の田)」、「悲田(困っている人を助ける心の田)」のことで、これより「三田(さんだ)という地名が起こったといわれています。
多くの国指定重要文化財があります。
嫁が渕(よめがぶち)が、三田市けやき台の武庫川と青野川の合流点にあり、嫁が渕ものがたりで有名です。
昔、仲の良い若夫婦がおり、姑は二人の仲をねたみ、よく嫁いびりをしていました。
ある日、姑がお嫁さんに、一つの広い田を「今日中に植えるように」と言いました。
お嫁さんは一度も休まず必死の思いで植えたのですが陽は暮れてもまだ半分しか植え終わりません。
このまま帰ると姑に何と言われるかわからない。
それを思うと急に悲しくなり、渕の上の大岩から身を投げました。
村人達は、お嫁さんを哀れみ霊を慰めようと、祠(ほこら)を建てて祀(まつ)りました。
それから、この渕を誰言うとなく「嫁が渕」と呼ぶようになったのです。
武庫川の上流です。
嫁が渕の交差点にはM-CLASS GARDENという施設があり、巨大な恐竜が。
花山院(花山院菩提寺)は、三田市中心部から北方へ約6キロの東光山上(標高約400m)に位置します。 正暦3年(992年)頃、三十三の観音霊場を巡礼した花山法皇が、播磨清水寺に登った際に東方の山上が光り輝くのを見て訪ねて隠棲の地とし、その後晩年に帰京するまでの約14年間を過ごしたとされています。
花山法皇につかえる京(みやこ)の女官11人は、法皇を慕って花山院を訪ねましたが、女人禁制の為、尼となって山のふもとに住みました。尼達は、坂を登って、これ以上立ち入れない所で琴を弾いて法皇をおなぐさめしたことから、この参道の坂を、「琴弾坂(ことひきざか)」と言うようになりました。 また、いつの頃からか、この地を「尼寺(にんじ)」と呼ぶようになりました。尼寺の中央の丘に、妃の弘徽殿(こきでん)祇子と11人の女官の墓があります。
※スマホはタップで電話がかかります
※スマホはタップで電話がかかります
※スマホはタップで電話がかかります